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画家の模型(眩暈と剥離)     

 

制作ノートより

2020.June

 

光によって複製されたイメージ、その模型としての記憶、記憶によって構築された公式、その公式に代入した感覚が作る現実、現実を複写するための光。

まるで世界の全てがコピー&ペーストで出来てるみたいだ。

 

 

速い光はどうすれば作れる?

微かな光、ぼやけた光、強い強い光は?

光の拡散、光の乱反射、光の収束から

どうしたら時間を変質できる?

 

 

場所規範の時間と、時間規範の場所と、その違い

 

 

 

2020.August

 

絵画によってイメージを引き寄せるとき、その絵がどこに在るのか、どの座標に在るのかを考えるだろうか?場所を作るとき、位置を作るとき、大地も光も人も物も、時間や空間だ。イメージがその構成要素によって誘引されるとすれば。画家はその際面にいて、時間と空間を引き受けるために開かれ閉じるのだろうか。(それはさながらカメラのシャッターのように)

イメージとは何だろう?

その図と地は元々どこにおかれているのだろう?

絵画の「中身」はどの様に位置するだろう?

私の表面は、何に向かって面しているのだろう?

 

 

私たちがひとつの絵を描くとき、それは光を迎えるための一連の儀式である。

画家の行為とはある種の祈りである。

私が設ける空間は礼拝堂であり、その期間は祝祭日である。

本質的に、画家が求めているのは絵画へ向かうための過程であり、画布は画家の保つ絵画の依代である。器、鏡、人形である。

絵画が現れるための場、重量の恩寵により光を引き寄せるまでの間。

画家はその活動によって、絵画の特別な位置を維持しなければならない。

 

 

1本の線を引くとき、とある色を置くとき、私は全く自由ではない。その瞬間、私の背景には、その動作を決定するための膨大な情報が働いている。私はある条件に従って、受動的に意思を持たされている。画面に立つ前、描く以外のあらゆる活動が、ひとつの絵を描くために、私の背後で仕組まれている。

 

 

2020.October

 

絵画は生成の結果ではなく、崩壊の逆行である。

 

 

2020.November

 

詩人が詩展の準備のために、無人の野山に篭って、用意した蛇の皮20匹分の柄を布に刺繍する。という夢を見た。焚き火に照らされながら刺繍した布を木に巻きつけると、蛇が木を這い上るような様相で、「優れた作品はひとつの儀式でなければならない」と言った。

 

 

整理された自然、環境が持つ知性

 

 

儀式の結界を作る条件は、仮設的で、不安定にあるだろう。またそれらの儀器は生活と制作に根付いたものである。液体、植物、鉱石、土、塩、カルシウム、鏡、布。幽玄であること、儚く朧げであるもののために。必然のために、運命のために作り上げた儀式。

 

 

2020.December

 

画家とは受動的な振舞いだ。

徹頭徹尾一方的に晒され、受け続ける。

画家の意思は、絵画の発生する過程を分解することならできるだろう。

しかし、それを歪曲することや、偏向することなどできない。

 

 

儀式と結界、幽霊、約束と運命、境界、変容、鏡。逆さ、双子、複製。

 

 

描き終わった絵を、どう展示するのか。とは考えない。

絵は続いている。描く前から、描いた後も。絵は行為だ。絵はイメージそのものだ。絵は過程だ。絵は途中だ。絵は続いている。

生前も死後も、人は描かれている。絵は描き終わることがない。

 

 

生まれたことは理不尽だ。しかし運命は約束され、必ず果たされる。ならば絵画は福音のようにもたらされる、痕跡だ。

絵画それ自体が生命という現象の一部であり、運命の姿だ。光は未来から過去へと貫かれる。私は私のいま在る時間と場所を、絵画を目印にして幽霊のようにすり抜ける。

これから私には光以外の時間を測る道具が必要だ。絵画にはそれが言葉にならずに眠っている。

 

 

身体の絵画的な現れ、絵画による身体の彫刻化。

絵の前の透明な小瓶は、絵画を入れた器になり得るのか。

絵の前の僕の身体は、絵に染まった空間になり得るのか。

もしかして私とは、絵のイメージが現実に物質化したものなのではないか。

2021.January

 

地球上は重力の世界だ。光が上方から降り注ぐ、厚みと奥行きの世界だ。絵画はそれが限りなく薄い世界だ。私たち人間の世界から見れば、絵画の世界は潰れている。仮象の圧縮だ。この、実在しない、見かけだけの存在。しかし、見方を変えれば、あるいは圧縮されていたものが膨らんだのが私たちの世界だ。見かけがすべてであり、実在という概念は水を吸って膨らんだドライフードのようなハリボテを指しているに過ぎない。仮象と実在は実はその程度の違いしかない。

 

 

2021.February

 

2015年「頂上への沈降」、2020年「光景の背後」、それらが眺めを作るための場であったなら。

それが一枚の絵に至るためには何が必要か。

 眺められる存在

 眺めかける存在(眺め誘う様)

 沼をのみ込んだひと

 夜に揺れる輪郭線

 結晶化(静止したもの)

 

 

2021.March

 

絵が私たちを思索に誘う、ってのがいい。

一枚の絵の前に、10分、20分佇ませる力があるか。

僕はマーク・ロスコでそれを初めて体験した。

佇ませる力。

絵を長く見られるってことは、絵を前に私たちが思案を巡らせているからだろう。いい絵には謎めいた魅力がある。私たちは考える、押し寄せる感情の由縁が何なのか。その感情はきっと、絵を見る前まで、たった今まで忘れていたものだろう。私たちは目の前の絵を微かな手がかりに、過去現在未来を巡る。答えは出ない。そして絵は残り続ける。絵画の放つ光が、脳裏にその残像を焼きつける。

 

 

描きかけの絵、着色した端材、アトリエの中で生まれる偶然の組み合わせが、ときどき絵のように美しい。

 

 

絵画に読み解かせるような情報はない。

絵画に伝えたいメッセージはない。

絵画はいつも状況を作っている。

 

 

絵でも本でも記号でも建築でも、膨大な情報の中から特定の領域を注意喚起させるための構造物(オブジェクト)なのだ。他者の存在もまた同じだ。

 

 

絵画の前に立つとき、私たちは情報の光を浴びる。ある歴史、時間、見え方(様相)、その様式。光は情報だ。絵画は反射している。絵画は光を放射している。人は、地形は、景色は、光を放っている。世界が反射している。光が反響する。

 

2021.April

 

今はもう会えないあの人の面影を、頭の中に思い浮かべると、確かにあの人の像が結ばれる。

 

それはいつか撮った写真だろうか。

動作を伴うような景色を映した像の一部分だろうか。

それとももっと漠然とした印象のようなものだろうか。

ときに声や匂いや感情も、その像に絡まり立ち上がってくる。

 

記憶だけを頼りにそれを描こうとしても、写真のように現像することにはならない。

恐らく形として合致していても、「同じだけ」で「似て」はいない。

しかし描くうちに「ああ、この線はあの人らしい」とか、「この色合いは馴染みがいい」と言った確信みたいなものは掴める瞬間があるだろう。

 

記憶は、私を依代に再構築された時間の模型みたいなものかと、ふと思う。

それは在りし日の姿の塊そのままとして仕舞われているのではなく、思い返すたびに印象の粒子があちこちから集められて組み上がる一瞬の建築物ではないか、と。

 

 

 

 

展示の準備を進める中で、「一体いつになればいい絵ができるのだろう」と思う時がある。相変わらず技術も思想も無く、見るほどに惨めな気持ちになる絵が並んでいる。でもどの絵もどうしようもなく、愛しい。「作品と自分は別」だなんて割り切る事はできない。全てかけがえのない、私の断片で在り続けている。

最近は”美術の未来"よりも、"はじめて絵を描いた時"のことを想う。

誰かの為にこの世にあるもの。絵の大切さ。絵の前では、過去が私を見つめるようにある。

 

 

 

 

小学生の頃、ノートを束で買い、表紙や目次を付けて、絵を描き、マンガの単行本に似せる遊びをしていた。コマ割りをしてマンガらしき見た目だったが、物語は無いに等しく、描きたい場面がデタラメに並んでいた。「マンガごっこ」と呼ぶのが相応しいかもしれない。なにしろ前書きや後書き、設定画風のページもあった。プラモデルを作って遊ぶように、マンガの模型のようなものを作っていた。

 

今は展示室の壁を塗りながら、この「画家ごっこ」も慣れたものになってきたな、と思う。

このままずっと、僕自身が本当の絵に辿り着くことはないんじゃないか、と。

いつまでも画家の模型を作って遊んでいるんじゃないか。あのマンガの模型を作った日々のように。

 

 

2021/5/1

 OPEN STUDIO 画家の模型(眩暈と剥離)に寄せて

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