透明な日
制作ノートより
2021.April
今はもう会えないあの人の面影を、頭の中に思い浮かべると、確かにあの人の像が結ばれる。
それはいつか撮った写真だろうか。
動作を伴うような景色を映した像の一部分だろうか。
それとももっと漠然とした印象のようなものだろうか。
ときに声や匂いや感情も、その像に絡まり立ち上がってくる。
記憶だけを頼りにそれを描こうとしても、写真のように現像することにはならない。
恐らく形として合致していても、「同じだけ」で「似て」はいない。
しかし描くうちに「ああ、この線はあの人らしい」とか、「この色合いは馴染みがいい」と言った確信みたいなものは掴める瞬間があるだろう。
記憶は、私を依代に再構築された時間の模型みたいなものかと、ふと思う。
それは在りし日の姿の塊そのままとして仕舞われているのではなく、思い返すたびに印象の粒子があちこちから集められて組み上がる一瞬の建築物ではないか、と。
2021.May
目にした景色をフレームに収め、一歩後ろへ下がり、設けたフレームの外縁へ視野を拡大する。景色を横に押し広げるのではなく、前後に引いてゆく。枠組みを発見したら、枠組みの外を作り、それを無限に繰り返す。前後不覚。未明。しかしその、"枠組みを捉え、超える方法"すらをも忘れること。その為の"透明"という感覚、その為の"幽霊"という在り方。自在に寄ることも離れることも出来る、すり抜けることも。
感情は時間や空間の計り。
人が何かを見た時、そこで何が起きているのか。
風景に、人物に向き合ったとき、誰かのその出会いの場に立ち合ったとき。
私は絵画によって、現実上の何かを変えることが出来るのではないかと考えている。事実や過去を、未来の約束を、形作るのは絵画なのではないかと。絵が見える、ということ。絵が見えてくる、ということ。絵が発生する場所。鏡が発生する場所。
感情、夢、比喩、儀式、見立て、例え、鏡、双子、増殖、複製、絵画、画家、展示空間、観照者、眺め、見つめ、結界、領域、運命、時間、条件、過程、逆行、、、
水槽の中を見るように、アトリエを見る
アトリエを見るように、環境を見る
水の中でしか生きられない魚
アトリエにだけいる画家と絵
眺めるものと見つめるもの
私は私の見ているものを少しずつ理解している
昔から整理整頓されたアトリエが好きだったけど、散らかって混沌としたアトリエからじゃないと生まれない絵がある。辿り着きたい絵があって、そこに至るためにどんな環境を用意して、どう過ごすかを考える。なんだか絵の世話をしているよう。
人間を外から見れば、それは永遠普遍に完成している。私たちが終わりへ向けて変化していると感じるのは、私たちがそう感覚するからだ。"始まりから終わりまで変化する"と、そう感覚することが人間という形式だ。しかしそれは同時に既に終わっている。あるいは、始まりへ向かって終わりから逆行すらしている。
僕は二十代に、先生や友人、教え子や家族の、多くの理不尽な死に向き合わなければいけませんでした。
あらゆる距離感の死に直面して、自分自身の生き方も定まらない中で、夜中僕は車を走らせて沼に通いました。覚えたてのタバコに目を眩ませながら、昼間の現実から遠く離れて、夜の帳の中に彼らの気配を探していたのかもしれません。
今にしてみれば、場所とはそうして作られるものかもしれません。
いつしか僕は今の私になり、僕の模型を眺める私が佇んでいるのです。
私は所詮ただの眼なので、時代について自ら変化したり、適応する必要はない。
絵の具の乾く速度の調整と、その間に出来る動作には限界があって、修練や経験則を積まないとできないことがある。デッサン力が大事だというのは嘘では無いけど、短時間での判断と正確な動作というのが重要な要素でもある。
油絵具は生(未乾燥)の状態を長く取れるので、加速装置を使ってスローモーションの世界にいるような感じがする。人は絵を描くとき、イメージを持つ、シミュレーションする、反射的に正解の動きをする、肉体の外に身体をつくる、といったことをする。「わたし」が外側に開かれる。これはすごく色々なことに通じる。
2021.June
時間の川の
水面に光がちらちら揺れる
時間の川沿いをゆく
宇宙に浮かべば
時間の球を見る
近くは儚く弱く光り
遠くは眩く強く光る
きらきら瞬く
過ぎるわたしの光が瞬く
経過したのは時ではなく私。
在るかもしれないし無いかもしれないものを、曖昧なまま信じるのは、絵を描くために大切なことだ。
2021.July
光景を完成した一枚のものとして見るのではなく、バラバラになった部品のように並べている、人。
組み立てる前のパズル、爆発の最中、人の輪郭の断片。偶然にハマった部品、一瞬だけ姿になる。
絵には、理解できないものであって欲しい。
正体の分からないものが、確かにそこにあるということ。絵とは、絵の具が絵の具としての役割を失うとき。
目に見えた景色を描く、から 景色の模型化、へ
私のアトリエは実家の倉庫。夏は父の仕事場になる。
その間アトリエとしては夏期休暇中。アトリエから離れてひと月が経つ。
制作が恋しい。たぶん絵を描く行為そのものが目的なのだ。
アトリエにいるときは、離ればなれのものたちも一緒にいられる。
真実正直に、真っ当な存在でいる。
2021.August
自己の連続性を記憶したまま、そこから跳躍すること。
あちらとわたしを交換可能だと思うこと。
空間の中のポイントとしてわたしを扱う。
大きな山のようになったわたし。
今このわたしのようになった木々。
2021.November
私の関心は、ボリューム/グラデーションにある。抽象と具象の間/絵画とイメージの間/イメージと現実の間/人と絵と時間と空間の間。あの世とこの世の行き来をしよう。あなたとわたしの交換をしよう。過去と未来を相殺しよう。私は絵画を物差しに、私の身体を物差しにして、すべてを計測不可能にする。
2021.December
小さい絵と小さい絵の要素を組み合わせて、大きい絵の構図をつくる。
いくつかの絵の要素を合体統合させる。
いま絵が模型のように組み立てられている。
その絵を組み合わせると展示ができる。
<亡霊を共有する夢>
「その子が一番大好きで、その子のことを一番大好きだった人がいるときだけ、その場の家族全員に亡霊が見えるって言うよ。ああ…やだ…ほら」
そんな話をしながら家族3人で車で家に帰ると、庭にココアが待って鳴いていた。子猫の姿で喉を鳴らして僕に擦り寄る。足元で触れると、大きな姿になって、確かに抱き上げることができる。暖かい…ふわふわしている。「ココ、おまえ亡霊なの?」涙が溢れそうになる。次第に僕は夢から引き剥がされるように目が覚めていく。
少しずつベッドの感触が手に感じられる。身体の寒さが感じられ、布団がめくれていることがわかる。込み上げた涙が、現実では流れていなかったことに気づく。そうか…。横になり丸まって小さくなった体の、その中心、腕を抱えた胸の辺りだけが暖かい。
亡霊を知ってしまったら、もう夢でココアに会うことはできないのだろうか。ココアのことを、ちゃんとココアとして見る夢。覚めるまで、本当にココアがいると感ぜられる夢。
制作は夜がよい。キャンバスを張ったり、地塗りをしたりは日中でもよい。
だが絵を描くのは、夜中皆が寝静まり、窓の外に闇が広がる間がよい。
まるで真っ暗な海の上でアトリエだけが火を灯すよう。時間が過ぎてゆくのが分からない。
たまに、俺が絵画だと思っているものと他人が絵画だと思っているものは違うものなのではないか、と考える。
2022.February
風景の中を、歩いたり自転車に乗ったり車に乗ったりして、構図や感覚を探っている。
現実の風景を模型の様に捉えている。様々な視点から、様々な角度から観察した結果が、一枚の絵に結実する。(…ように見える。)
イメージはどこにあるのか。イメージとは、何のどの様な状態なのか。イメージは平面ではない。平面はいつ生まれる?そもそも平面は存在しているのか?平面とは、私たち人間の身体を基準に、社会的に規定しているある範囲を指しているに過ぎない。
絵画はどこにあるのか。絵画はいつ始まって、いつまで続いているのだろう。
現実とイメージの何が違うのだろうか?
まるで、…の模型の模型の模型が、現実であるような。
絵画も、イメージも、現実も、身体も、全てが模型、全てがなんらかの筐体(器)なのだ。
私たちは虚構だし、私たちは虚無だ。
私たちは虚空で、私たちは空洞だ。
ハリボテ(人間)が、本質(神)に憧れを抱いてきたのが西洋文化だ。彼らは、自らが神の模造品であることを根深く自覚している。
対して私たちは神を畏怖するが、私たち自身をハリボテとは思っていない。私たちは自らも自然の一部の小さな単位として捉えている。神は自然の一部の大きな単位として捉えている。私たちは、私たちが変化そのものであると思っている。死後、私たちは祖霊になり、神に近い存在になる。その先いずれ、私たちは巡り、また人になったり、別の何かになったりする。
人間の価値観と社会構造が変化し続ける限り、絵画は死なない。死にようがない。あらゆるメディアが、本来なら死ぬはずがない。変化のたびに、それらの概念は新しい使用法を得るからだ。真に絵画が死を迎えるのは、人類が今とは全く別の生命になるときだ。生命の定義、生存のあり方が変わったとき、それが人類という単位で実現したとき。絵画は全く姿を変え、かつての絵画と訣別するだろう。
今、私が描いている絵と、この先描かれる絵には、横のつながりがある。絵画は時間をかけて作られている。しかし、その元になるイメージは同時多発的に発生している。因果関係は前後関係とは限らない。1枚の絵が意味を持つのは、他の多くの絵の存在があり、その関係性があるからだ。意味は関係性から生まれる。
現実の模型化、人間の人形化
美術館までのアプローチに、現実模型化のための記号を仕掛ける。身体を宙吊りにする意識変容。
抽象と具象、現実感(リアリティ)の解像度を扱うこと
発生から消滅までの間、存在という領域
あるいはその過程全てを差すパッケージ
仮想現実が実現したとき、人格の模造が可能になったとしたら、死はどのように変質するだろうか。
蘇生を目論んでいる。ゆえにモデルは千と千尋の神隠し、ディズニーランドのような、イメージが現実へ侵食する場所/条件の構築を考える。
儀式とは、呪術とは、世界の模型化(現実の抽象化作業)である。ファンタジーとは、抽象化され仮想的に作られたものだ。記号(アイコン)と言語によって私たちは世界を認識する。ドラゴンというアイコンが、異世界を規定する。
日記は日々の客体化、時間の抽象化/模型化
絵画制作の良いところは、その過程で認識の解像度を上げたり、また逆に曖昧な認識に戻ったりすることだ。”知っている"を維持したままで、"見えない"を作ろうとしたり。
振り返ると、寡作で落第スレスレの4年間だった大学生活も、日々の生活すらままならない極貧無職な二十代も、ずっとただ絵が描きたいと願っていた。絵が描ける自分になりたかった。何をどうすれば絵が描けるのか、絵に身を捧げるにはどうしたらいいか、絵に選ばれるには何をすればよいのか。私は画家になりたかった。私はただ透明な目になりたかった。
2022.April
<自然光のアトリエ>
窓からさす西陽が揺れている。
部屋は静寂。小さく鳴り続ける、冷蔵庫が震える音。
外は風が強いらしく、窓から庭木が大きく揺れている姿だけが、まるで別の世界のように見えている。
手にした本のページに光が瞬く。
窓一枚隔てた別世界の風の動きにあわせて。
詩人や忍者と暮らした、あの頃を思い出す。
大学を出てすぐの一年間。
週のうち六日は休みで、白湯をすすりながら誰もいない食卓で日がな一日本を読んでいた。
あの部屋もこんな西陽がさしていた。
もうすぐふたりの家人が帰ってくる。
そうしたら晩の食事にありつける。
一日の孤独も忘れられる。
そんなふうに小さく胸を躍らせながら、二人の帰りを待っていた。
手持ち無沙汰で、やるべき何かがひとつも無くて、そういうときに見る光というのは本当に美しい。
旅先でぼーっと川面を眺めたり、キャンプで火や星が揺れ瞬くのを見るのに似ている。
これはこの体が感光している心地よさで、この体はそのために与えらているような気すらする。
絵を描いていないと、描く理由とか意義とかを考えたくなる。たぶん不安なのだ。絵を描いていると、そんなこと考える必要がないことが分かってくる。他の絵を見たときにも、意味とかは求めなくなる。それはただ享受するもの。
目的も意図もなく描いている。